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5月のある日

我が家の朝の卵料理は、100%目玉焼きだ。ゆで卵との勢力図などない。さらにその目玉焼きは四方をベーコンに囲まれた不落の要塞なのである。その地は良質な醤油にも恵まれ、それをわたしが毎日食べている。同じものを、同じように調理(調理と言えるのか?)し、同じようにいただく。繰り返しの美学である。

この美学をかたちづくっているのは、このベーコンエッグだけではない。マーガリンを塗ったトーストとお味噌汁、バニラヨーグルトも同じだ。そう、お味噌汁である。和も洋も混じっていい。食べるのはわたしだから、わたしがよければ、いいのだ。しかも、いまのわたしは朝食のなかで、そのお味噌汁がいちばんのお気に入りだ。先月くらいからなぜかお味噌汁にハマっている。実のところ、ほかの洋とあわせてスープ派だったのだが、とある日になんとなく買ってみたインスタントのお味噌汁を飲んでみたら、これがおいしい。インスタントのお味噌汁って、こんなにおいしかったかと、いまわたしは毎朝そのおいしさを心待ちにしている。しかし、昨日からストックを切らしているので、スーパーに買い出しに出かけたら、何はなくともお味噌汁だけは買おうと決めていた。これほどインスタントのお味噌汁を欲することがあるのかと、自分でもおかしくなる。

朝食をすませ、なんともなく、登録してあるインターネットの更新情報をチェックしはじめる。朝は前日の夜からタームが長いので、リフレッシュをかけてやるとちいさな滝くらいの勢いで更新情報が流れてくる。これも今となっては外の世界とわたしとを繋げてくれるものとして、しっかりと実のある役割がある。タブレットを抱えてソファーにだらっとなって、見る。今朝はとても興味深い長文エントリーが降ってきていて、旨味を噛みしめながら読んだ。複雑なものごとを、その複雑さを省略しないまま、しかしことごとの切り分けははっきりと、言いたいことが伝わるように、書く。これを見事に為し得ている文章だと尊敬した。わたしに同じことはできないなとは思ったが、練習?訓練?次第では、このようにテキストを使って、複雑なものごとを、読んだ人に伝えることができて、それを身につけられるかもしれないんだと、わたしには似合わないくらい前向きにも考えていた。

メールやらに目を通して、音楽を聞いて、その頃はもうお昼の12時のはずで、食事をしたのだが、そのあとをもうおぼえていない。そして、いまになって気づいたが、わたしが書こうとしていたのは5月12日のできごとだったが、これまで書いた目玉焼きやらお味噌汁やら文章やらのできごとは、5月13日のことだった。だとしたら5月12日はどこへ行ってしまったのか。もうおぼえていない。

5月13日の夕方は、スーパーに買い出しにでた。しかし結果から言うと、お味噌汁は買い忘れた。あれほどゼロだったストックを買い足せることに心待ちにしていたにも関わらず、自宅に帰り、買ってきたものをしまっている最中になるまで、忘れていた。明日の朝も、たまごスープだ。

夜、めずらしくLINEの通知が鳴る。仲のいい編集者からどうぶつの森をやってるかというメッセージだった。ああだこうだ話したあとになって「メトロポリタン美術館の絵をお部屋に飾れるらしく それでやってみたい となった」と隠すというほど大げさではないが、どうぶつの森が気になった本当の理由を話してくれた。 そういう入り口もあるか、と妙に納得する。そのあと、同じ部屋にもうひとり編集者が加わり、夢って不思議だねとか、変な夢をみたとか、そういう他愛のないメッセージのやりとりをたくさんしていたなか、そうしたら、ひとりからふと「いま この会話とこの時間 高校生の放課後みたい」と、ぽつんと、言葉がでた。なんだか、うれしくなった。何で繋がるでもないのに、繋がっているようで、むずむずにやけてしまう、他愛のない会話が、少し、尊かった。こんな大げさに思ったのは、わたしだけかもしれないけど。

しかし、ここまで記憶が抜け落ちたり、ものを忘れが多いのは、ちょっとふつうじゃない気がする。医者に見てもらったほうがいいのだろうか。怖い。

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