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月: 2020年5月

ハルの終わりに

明日から6月だ。どうやら春は5月までらしい。だから、明日からは夏だ。

ここのところは相変わらず新しい仕事の話もちょこちょこしていた(ありがとうございます)。しかし、合間は少しぐったりしていた。体調はいいし、気持ちも上向きなのだが、いつにも増して、何もしていなかった。

3月上旬から外出自粛なわけで、緊急事態宣言が全国的に解除されたとはいえ、状況が状況で、今も自粛はつづけている。そうもなれば、いよいよ YouTube を見漁ったり、ラジオを聞いたりしていれば、そのうちに夜がくる、そんな暮らしにどこか重みを感じるようになってきた。動画をみて、ゲームをし、本を読んで、眠くなればうたた寝をする。そういう暮らし方をいよいよ変えていくタイミングなのだと、体が教えてくれているのかもしれない。

『あつまれ どうぶつの森』をはじめてみた。発売されてすぐに話題になったので、興味はあったのだけど、私の傾向からするとストーリーの推進力の薄いゲームはつづかないので、どうしたもんかと長いこと眺めていた。

そのあいだも、伊集院は毎回ラジオで自分の島のことを話すし、少なくない知り合いも楽しく遊んでいるようだった。私と同じように眺めている側の友だちから、あれはおもしろいのかと聞かれたこともあった。はじめるきっかけは幾度もあったが、最終的に背中を押したのは坂本真綾さんだった。ラジオでさらっと遊んでいると話していたのだ。憧れってのは怖いね。そして自分の影響の受けやすさも好きなアーティストからとなれば悪い気はしないわけで、なるほどインフルエンサーマーケティングである(ちがう)。

私の島「すもものきままに島(とう)」では、まだ草むしりと釣り、昆虫採集をはじめたくらいのものだ。明日以降、たびたび遊ぶかどうか。あまり自信がない。

まだこのブログのリズムが掴めていない。しゃべり言葉で書いていたこれまでの書き方から、書き文字の書き方に変えるのはおもしろいと思っていたのだけど、気を抜くとすぐしゃべり脳で書いてしまう。今のこれも。それから更新頻度もまばらだ。まあいい。

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5月のある日

我が家の朝の卵料理は、100%目玉焼きだ。ゆで卵との勢力図などない。さらにその目玉焼きは四方をベーコンに囲まれた不落の要塞なのである。その地は良質な醤油にも恵まれ、それをわたしが毎日食べている。同じものを、同じように調理(調理と言えるのか?)し、同じようにいただく。繰り返しの美学である。

この美学をかたちづくっているのは、このベーコンエッグだけではない。マーガリンを塗ったトーストとお味噌汁、バニラヨーグルトも同じだ。そう、お味噌汁である。和も洋も混じっていい。食べるのはわたしだから、わたしがよければ、いいのだ。しかも、いまのわたしは朝食のなかで、そのお味噌汁がいちばんのお気に入りだ。先月くらいからなぜかお味噌汁にハマっている。実のところ、ほかの洋とあわせてスープ派だったのだが、とある日になんとなく買ってみたインスタントのお味噌汁を飲んでみたら、これがおいしい。インスタントのお味噌汁って、こんなにおいしかったかと、いまわたしは毎朝そのおいしさを心待ちにしている。しかし、昨日からストックを切らしているので、スーパーに買い出しに出かけたら、何はなくともお味噌汁だけは買おうと決めていた。これほどインスタントのお味噌汁を欲することがあるのかと、自分でもおかしくなる。

朝食をすませ、なんともなく、登録してあるインターネットの更新情報をチェックしはじめる。朝は前日の夜からタームが長いので、リフレッシュをかけてやるとちいさな滝くらいの勢いで更新情報が流れてくる。これも今となっては外の世界とわたしとを繋げてくれるものとして、しっかりと実のある役割がある。タブレットを抱えてソファーにだらっとなって、見る。今朝はとても興味深い長文エントリーが降ってきていて、旨味を噛みしめながら読んだ。複雑なものごとを、その複雑さを省略しないまま、しかしことごとの切り分けははっきりと、言いたいことが伝わるように、書く。これを見事に為し得ている文章だと尊敬した。わたしに同じことはできないなとは思ったが、練習?訓練?次第では、このようにテキストを使って、複雑なものごとを、読んだ人に伝えることができて、それを身につけられるかもしれないんだと、わたしには似合わないくらい前向きにも考えていた。

メールやらに目を通して、音楽を聞いて、その頃はもうお昼の12時のはずで、食事をしたのだが、そのあとをもうおぼえていない。そして、いまになって気づいたが、わたしが書こうとしていたのは5月12日のできごとだったが、これまで書いた目玉焼きやらお味噌汁やら文章やらのできごとは、5月13日のことだった。だとしたら5月12日はどこへ行ってしまったのか。もうおぼえていない。

5月13日の夕方は、スーパーに買い出しにでた。しかし結果から言うと、お味噌汁は買い忘れた。あれほどゼロだったストックを買い足せることに心待ちにしていたにも関わらず、自宅に帰り、買ってきたものをしまっている最中になるまで、忘れていた。明日の朝も、たまごスープだ。

夜、めずらしくLINEの通知が鳴る。仲のいい編集者からどうぶつの森をやってるかというメッセージだった。ああだこうだ話したあとになって「メトロポリタン美術館の絵をお部屋に飾れるらしく それでやってみたい となった」と隠すというほど大げさではないが、どうぶつの森が気になった本当の理由を話してくれた。 そういう入り口もあるか、と妙に納得する。そのあと、同じ部屋にもうひとり編集者が加わり、夢って不思議だねとか、変な夢をみたとか、そういう他愛のないメッセージのやりとりをたくさんしていたなか、そうしたら、ひとりからふと「いま この会話とこの時間 高校生の放課後みたい」と、ぽつんと、言葉がでた。なんだか、うれしくなった。何で繋がるでもないのに、繋がっているようで、むずむずにやけてしまう、他愛のない会話が、少し、尊かった。こんな大げさに思ったのは、わたしだけかもしれないけど。

しかし、ここまで記憶が抜け落ちたり、ものを忘れが多いのは、ちょっとふつうじゃない気がする。医者に見てもらったほうがいいのだろうか。怖い。

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5月11日 時間と音

何もせずに時間だけを進めるのが得意だ。

時間を進めるのは楽だ。何もせずとも時間は進む。気づいたら2時間が経っていた。私の人生を生きていると、そういう場面が頻繁に訪れる。なぜだろう。時間の感覚が薄いのか。1日1日を大切に生きていないのか。そもそも、1日1日を大切に生きるの意味がよくわかっていない。

なぜこんなことを書いたのかというと、ゲーム実況を流しながら、ときどきツイッターをみていたら1日が終わったからだ。少なくともお昼の12時あたりから、22時すぎまではそう過ごしていたと思う。

よく見かけるゲーム実況アカウントでFF7リメイクの実況を見ていた。自分でも一度クリアしているゲームだから、ネタバレは怖くない。一部、自分が通っていないルートや見ていないイベントは出てくるが、これくらいのネタバレは私ルールではOKなのだ。しかし、ゲーム実況というのは不思議なもので、なぜ見ているかと言われてもよくわからない。画面にたくさんサムネイルが並び、そのなかから何らかの理由でその動画を再生しはじめるのだが、それを選んだ理由を、自分の感覚にずれず、人に伝わるかたちの言葉にできる自信はない。なんとなくなのだ。

ひとつ思いつくなら、実況する声の音刺激が心地いいのかもしれない。人気を得るゲーム実況者がもつスキルのなかに声の良さはあると思う。話の内容がおもしろいとか、共感できるとか、その人が作っているその空間が楽しいとか、そのチャンネルを楽しみにする理由はたくさん考えられるが、声が良くてなんとなく聞いていてしまう、というのもある気がする。見ていたFF7リメイクの実況も、カットシーンがくれば感情移入して見るし、自分が苦労して突破したボスを余裕で倒して進んでいくようすを見れば、少しくらい苦戦しているところを見てみたいなんて悪魔な気持ちが湧いてきたりもするのだが、いちばん自分でしっくりくるそのチャンネルを見ている理由は、おもしろくもないがつまらなくもなく淡々と進んでいくことと、実況者の声が通低音のように途切れなくつづく刺激音として心地よいからだと思う。

日記って難しい。

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5月10日 ながれつながり

12時就寝、8時起床のリズムが崩れぎみ。

昨日も寝つけず、意識がなくなったのは2時を回ってからだと思う。そこから戻り、微睡んだまま枕元のスマホをみる。7時20分。まだいいかと寝返りをうち、次にハローワールドしたら10時を回っていた。朝ごはん逃した。いや、今から食べるか。けっきょく、11時頃に食べた。と思う。昨日の記憶すらないでお馴染みの。

12時過ぎ。愛聴しているポッドキャスト番組の生配信を聞く。落ち着いたリズムのトークに身を任せる。何かをしながら聞くのはもったいないので、イヤホンをしてソファーに寝転ぶ。そのまま2時間。

今度は昼ごはんがずれた。それからは何をしたのか覚えていない。

夕食を食べて、湯船に浸かって、情熱大陸を見た。ウイルス研究家の回。このご時世に自らの研究を役立てようと研究を進めているドキュメントだ。その人に期待されていることに、その人が自発的に応え、世のためになる。そのために、企業へ共同研究を依頼し、研究の予算をまとめ、然るべき機関に予算を申請するとのことだった。ノートPC片手に、研究室のほかの方に機材の固定費か何かを確認していた。確認が必要だとわかると、大至急お願いしますと声をかけた。世界の健康の役に立つほどの研究室の方でも、やっていることは僕らと大して変わらないのだ。語弊があるが、人と人との繋がりが組み合わされて、何かができるのだ。ただ、それだけなのだ。そこに自らが持っている知識や技術や工夫を使うのだ。

不眠脱出の心得。布団に入ったらスマホは捨てろ。

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5月9日 茶をしばく

友人から Zoom 飲みをやってみたいから、茶をしばいてくれ(原文まま)とメッセージ。お互いにお酒を飲まないのを知っているので茶としたのだろう。いま誰かと話ができるのは、それだけで心に効くかもしれないので、すぐにOKのメッセージを返す。

どんなふうに暮らしているのか。仕事の状況はどうか。この状況になってはじめたことなどを話した。途中から旦那さんも参加してくれて私とあわせて3人に。あとでもう一人参加できることになって、夕食のための小休憩をはさんで、4人での二部構成に。合わせて3時間ほどの Zoom お茶会だった。

バーチャル背景で遊んでみたり、後ろに映り込む部屋の何かをトピックにしたり、ビデオ通話のレベル1をみんなでやった。それから、何日か前に Discord を使ったことで Zoom の音と映像のレートが低いことが気になった。通信環境の良くない状態のアカウントからは、映像も見ににくく、音もサンプルレートが低いものが流れてきて、聞きにくい。少しの工夫でストレスはだいぶ減るように思う。

毎日日記を書くのは、トレーニングだ。記事を書くのとは、使う筋肉がちがう気がする。

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5月8日

気づけば機会のある知り合い皆に、日記がおもしろいと話している。

ほどほどに共感はあるだろうとどこかで見積もっているらしく、見通しと少しちがうトーンの「そうなんだー」の声に僅かながら体がこわばる。Mac 越しにそのこわばりは伝わっていないだろうけど。一通り話せば、自分も書けばいいよと勧めてもらうのだが、私はたった1日前の昨日のことをおぼえていない。一瞬の断片は残っているけれど、それはいつにでもありそうな光景で、昨日だけの特別がないように思える。なくていいし、それでも書きはじめればどこかに転がるのだとは思うのだけど。記事はたくさん書いてきたが、日記はほとんど経験がない(10年くらい前に「日刊こたま」というのはやった。記憶があるならかなり古いフォロワーだ)。それよりも1日前のことすら断片の記憶しか残らないことのほうが身体的な心配をしたほうがいい気がする。

ラジオ収録にゲストで来てくれた知り合いの話が、考えていた感覚と通じるなと共感した。

今はnoteとかもそうですけど、当事者しか物を言えないみたいな雰囲気があって。当事者性が強いコンテンツ=最強みたいな。そうすると書き手は大変な経験をしなくてはいけなくなっちゃうんですよ。それっていいっちゃいいけど、そういうものしかないとヤバい方向に行く気がしていて。そういう大変な経験じゃなくてもっと日常的ななんでもないようなことを書きたいって気持ちなんですよね。劇的な物事が起きた当事者しかその何かを語れないみたいな状況があるような気がしていて、私もエッセイ書いてたりするので、それはやり方のひとつにしたいんです。

彼女は事実を持った当事者性と作りものを混ぜたエッセイまたはフィクションの違いを起点に話したのだけど、私が共感したのは「劇的な物事が起きた当事者しか物を語れない状況だ」という部分だった。肩書きや会社の名刺のような社会的なタグや、特別な処遇のもとでしか発言が許されないかのような雰囲気が、そのタグのない、またはタグを外したタイミングの、まっさらの個人であることを否定されているような印象を受ける。この、タグを取り払ったまっさらな個人=「ただ私である」ことおよびその発信が、仕事や家族のあり方を改めて見つめなおされている新型ウイルスによって大きく変えられてしまった人間社会においての状況や、生きていく上でまっさらな個人が存在承認を得ていくためのコミュニケーションの方法において、ベースレベルで大事なことになっている。そして、このことこそが、私が日記に興味を持っていることとへの3点での交差点なのだと気づいた。日記に興味を持ちはじめたのは去年からだが、このタイミングで奇遇な結びつき方をしたものだ。

さて、そろそろお昼ごはんを食べないと。

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